私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【今や人類最大の格差】なぜ美人やかわいい人間はあれほど得をするのか

突然だが、あなたに思い出してもらいたい事がある。

 

 

 

SNS上で、いわゆる「かわいい」と言われる人や「美しい」と言われる人はプロフィール写真を変えただけで、いいねが100も200もつくのをあなたは見たことがあるだろうか。

 

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そして、一方で、いわゆる「可愛くない」と言われる人や「不美人」と言われる人の渾身のリア重投稿がその足元にも及ばないことを目撃したことがあるだろうか。

 

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そのときリアルな世界では浮き彫りにならない世の中の不条理を目の当たりにして「やっぱりな」という感覚と「薄気味悪さ」を感じたことがあるだろうか?

 

 

 

 

 足早で恐縮だが、もうひとつ別の話題に付き合ってほしい。

 

 

 

私が幼稚園の時に或る女の子に恋をしたことを母親に伝えたら「なんで好きになったの?」と聞かれた。

 

 

 

そのとき率直に「かわいいから」と言ったところ、「そんなことで決めてはいけません」と激怒されたのだ。

 

 

そのとき「えっ。これダメなの?でもお母さんが言ってるからそうなのかなあ」と信じてしまっていた。随分とそのあと気を揉んだものだ。

 

 「かわいい」という理由で好きになるのは「いけないこと」らしいのだ。

 

 

 

さて本題に入ろう。 

 

今、この二つの話で何が言いたかったのか。

 

それは、現代は女性に対する建前と本音があまりにかけ離れすぎているということだ。

 

 

 

 

リアルな世界では、「誰かが作り出した」倫理を用いる。

一方で、裏では気にせず本音を放つ世界に我々は生きている。

 

 

 

 

なぜこの乖離が起こっているのか?

これにはかなり哲学の余地がある。

 

ということで、今日は、「美人」と「ブス」が繰り広げるこの悲劇的な争いに関して考察をしてみた。

 

  1. 面食いな男達の登場とそれに伴う戦いの始まり
  2. 近代イデオロギーによる「ブス」の淘汰
  3. 「美人」と「ブス」にかんする2つの建前でなんとか成り立っている現代

 

1.面食いな男達の登場とそれに伴う戦いの始まり

そもそも「美しい」「美しくない」を判断するのは概して男であり、男がその趣向性を持つことなくして「美人」と「ブス」の二項対立は発生し得ないことは読者諸氏にもご理解いただけると思う。

 

 

 

では、この趣向性はいつ発生したのか?(男はいつから面食いになったのか?)

 

 

まず結論から言うと、かなり最近の話だ。だいたい150年くらいだと言われている。

 

 

かなり昔と思うかもしれないが、2500年ほどの歴史の中で150年といえばかなり最近だ。

 

 

具体的には、明治維新以降に、旧来の価値観のシフトの一環として「容姿」への渇望が起こったとされている。

 

 

 

では、それまでは何で縁組を決めていたのかというともちろん「家柄」だけであった。

 

 江戸時代の上流社会といえば、まず武家を思いつく。下っ端はともかく、中以上の格式ある武家となれば、立派な上流階層だ。あとは、豪農、豪商といったところだろう。

 こういった階層になると、嫁を容姿で決めるなどということは、ありえない。いちばん重視されたのは、何と言っても家柄である。

井上章一『美人論』

 

 

 

そもそも明治までは、個人に恋愛の自由などなく、「親同士が勝手に決めている」と言ったことがほとんどであったようだ。

 

 

これは男が結婚をするまで、相手の顔を見たことがないということも多々あったことを示している。

 

 

もちろん例外はあった。それについては、以下のように井上章一は述べている。

 もっとも、例外は幾つかはある。巷の美人を嫁にするケースも、まれにはあった。

 その場合は、街で見つけた美人を、しかるべき家の養女にするわけだ。何と言っても訴状の知れない町娘と縁組をするわけにはいかない。まず、家柄をつけてから、その後で結婚へ至るという手順になる。

井上章一『美人論』

 

あくまで家柄同士の結婚にこだわったのが、江戸時代までだったのだ。

 

 

 

 

 

しかし、時は流れ明治維新が起こった。

その際、明治の新政府は、いわゆる士農工商という厳格な身分制度を解体し、四民平等とした。

 

 

これこそが、「美人」と「ブス」による長きにわたる二項対立の始まりである。

 

 

1871年には、華族から平民に至るまで痛恨の自由を認めている。これ以後、 日本人は旧来の身分による枠を超えて、誰とでも結婚できるようになった。

井上章一『美人論』

 

 

実際、結婚読本という結婚の手引き書には以下のように書かれている。

 

近今世間一般猥褻ノ習慣其常トナリ随テ諺ニ謂フ女ハ氏ナキモ玉ノ輿・・・ニ乗リ得ルコト容易ナルニ至レリ・・・・。

福井孝治『日本婚姻新法』1879年 

 

 

 

 

実際有名どころだと、伊東博文は芸者と結婚をした。

 初代内閣総理大臣は、キャバ嬢と結婚したのである。

 

 

 

これらの話を通して我々が気づかなくてはいけないことがある。

 

 

それは、民主化されていくと建前の平等と引き換えに、むしろ不平等な世の中になっていくという恐怖」だ。(建前と本音の乖離

 

 

くすぶっていた美人が浮上するチャンスがある一方で、多くの死体が転がっていることを忘れてはいけない。 

 

 

2.近代イデオロギーによるブスの淘汰

今、「近代イデオロギー」という言葉を書いた。

 

 

 

少し補足すると、明治維新というのは、まさにこの「近代イデオロギー」を取り入れた欧化現象を指すものである。

 

 

 

そして、その近代イデオロギーの中でも特に以下の3つの特徴がこの「美人論」においては通り過ごすことはできない。

  1. 資本主義
  2. 平等(民主主義)
  3. 個人の自由

 

すでに2と3については、結婚が自由にできることになったことで女性内の容姿における格差が著しく拡大した話でひとまず十分なので、1にフォーカスしてここでは話をしたい。

 

 

 

「美人」と資本主義には一体何の関係性があるのか?

 

これは、資本主義の特徴を見ればすぐにおわかりいただけるだろう。

 

 

資本主義は、「あらゆるものを市場に取り込みその価値を売買する」作用を持っている。

 

 

これには、ものだけではなく、もちろん人間も含まれる。 

 

 

その労働者の中でも、とりわけ「美人」は資本主義社会において利用価値がとても高いことがすぐに分かった。

 

だから、非常に多くの企業で賞賛されるようになった。

 

 

具体的には、今も残っているがキャンペーンガールやエレベーターガールと呼ばれる人として美人は資本主義社会に入っていった。

 

 

 

 美人が大手を振って、社会進出を始めたのだ。

 

 

一方で、それとは対照的に資本主義社会においては「不美人」や「ブス」は全く価値がないことがあからさまになってしまった。

 

 

 

だから、「不美人」たちは、社会的ステータスを得るための手段として、市場社会を離れた学問による大成しかなかったとも言われている。(それ以外方法がなかった)

 

 

 

 

三輪田学園の園長を務めていた三輪田元道が、次のような証言を残している。

 これは結構面白い。

 

女学校に於いて『卒業面』といふ言葉の流行したことがあります。何ういふ訳かと言ひますと、・・・・卒業してしまう女はまず醜婦に限られたやうな有様だったので、醜い顔のことを卒業面といったものでした。

「容貌の美と誘惑の手」『女学世界』1916年5月10日号 

  

 

自由、平等、資本主義

聞こえはいいが、結局は多くのものを淘汰した上に成り立つ概念だ。

 

 

 

 

*ちなみに未だに私は就職活動で苦労している「美人」を見たことがない。

 

3.「美人」と「ブス」にかんする2つの建前でなんとか成り立っている現代

現代社会においては、この実質的な「不平等」それ骨に出さない取り組みが実は行われている。

具体的には以下の二つの隠蔽工作を行い「不美人」を守る「装い」をしている。

 

  1. 美人不美人の議論を中止する
  2. すべての女を美人とする

 

井上は以下のように言う。

現代のたてまえには、二つの趨勢がある。一つは、美人だとか不美人だなどという問題を、論じさせないようにする方向そしていまひとつは、すべての女を美人だとする発言のみを、許容する方向。この二つである。

井上章一『美人論』

 

 

 

 

この2つこそが、我々がリアルとネットで目にするギャップのルーツだった。

 

 

つまり、建前の世界では、いくら友人から見せられた彼女の写真が「不美人」であれ、「いい子そう」や「ーにあってると思う」という演技もしくは二重思考が求められる。

 

だが、裏では、「あれはブスだわ」と言うのだ。

 

 

私はここで、ジョーオーウェルの言葉を思い出さずにはいられない。

 

二重思考とは、二つの相矛盾する信念を心に同時に抱きその両方を受け入れる能力をいう。

二重思考という言葉を使っている時ですら二重思考を行使しなければならない。

『1984』ジョージオーエル

 

 

現代社会が、常に何らかの「二重思考」を迫られることを教えてくれる象徴的な例が「美人」と「ブス」の二項対立なのかもしれない。 

 

 

これは実に教訓をもたらす考察であった。

p.s

井上章一先生の『美人論』はここには書ききれない「美人」と「ブス」の軋轢が述べられており、オススメなので、ぜひ手に取ってみてほしい。

 

 

おもしろき事なき世を面白く

 

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