私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

福澤諭吉がなぜ一万円札の肖像であり続けるのか考えてみようか

福澤諭吉といえば日本中がこよなく愛する「1万円札」の肖像となっている人だ。

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ただ、「1万円札の人」ということしか知らない人が多いようである。

これは大きな問題である。

 

 

肖像画が唯一前回から変わっていないという意味でも国にとって特に重要な人物であることを我々は認識しなくてはならない。

 

 

 

 

そこで、今日は、誰もが知っておくべき「福澤の教え」を3つの観点でまとめた。

 

  1. 賢者と愚者を分ける1つの基準
  2. 我々が常に磨くべき1つの能力
  3. 日本人の戒めるべき1つの考え

 

 

1.賢者と愚者を分ける1つの基準

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

 

この『学問のすゝめ』の冒頭は、「マクドナルドのハンバーガーを美味しそうに食べる人間」であっても「阪神の監督を俺にやらせろ」と言う人間であっても知っているくらい有名な箇所である。

 

 

 

 ここで、おそらく「阪神タイガースの応援が生き甲斐」のお父さんにはここまでの知識でストップしてしまうわけだがこれには続きがある。

 

しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。・・・・賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

 

学ぶか学ばないかで「阪神タイガースの応援が生き甲斐のお父さん」になるかどうかが決まると福澤は言っているのだ。

 

 

社会的地位が高く、重要であれば、自然とその家も富み、下の者から見れば到底手の届かない存在に見える。しかし、その元々を見ていくと、ただその人に学問の力があるかないかによって、そうした違いが出来ただけであり、天が生まれつき定めた違いではない。

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

 

 

福澤が言いたいのは、「終わった人間」は、最初から終わっているのではなく、終わるべくして終わるということだ。

生まれつき決まってはいないのだ。

 

 

  

そうはいっても、残念ながら世の中には「終わった人間」が沢山いる。 

それは例えば、東京大学やら慶応大学のような有名大学を出た人でもそうだ。

 

 

 

彼らは、そこまで多くを学んできたにもかかわらず、卒業証書をもらった瞬間に全く学ばなくなる。

 

 

 

だから彼らもめでたく「終わった人間」になっている。 

 

2.我々が常に磨くべき1つの能力

ここでは、福澤がなぜ学問をする事にそこまでこだわるのか?をさらに掘り下げていきたい。

 

それは学問をする事である能力をつけるためである。

 

 

 

それは、「疑う力」である。

 

 

阪神の監督は俺がやったほうがマシ!」とテレビの前で激怒している人には「疑う」と言われてもピンとこないかもしれない。

 

 

まあそういう人のために簡単に言えば、ある対象やある行動が「まとも」かどうかをじっくり判断できる能力をつけられると福澤は述べている。

 

信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか。

 福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

ここの「じっくり」という言葉がとても大切である。

この態度が多くの人から欠落している。

 

 

 

具体的にあげよう。

 

「まともかどうか」をじっくり考えるひと時を持たないから、ポケモンGOをすぐにダウンロードするし、「まともかどうか」をじっくり考えるひと時を持たないから、ラインで四六時中時間を無駄にしておきながら「コミュニケーションは大事だもんね」という言い訳ができるのである。

  

あるものを採用しようとすれば、ゆっくり時間をかけて考え、だんだんとその性質を明らかにしてから、取捨選択をすべきである。なのに、最近の世の中の様子を見ると、中程度以上の改革者たち、一人がこれをいえば、皆それに倣い、およそ知識道徳の教えから、政治・経済・衣食住の細々としたことに至るまで、全て西洋のやり方を慕って、これを手本にしないものはない。・・・ひたすら古いものを捨てて、新しいものを求めているようだ。なんと、物事を信じるのに軽々しく、疑い方の粗忽なことよ。

 福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

*ちなみにここでいう「まとも」とは世の中の前進に貢献するか否かできまる。

 

**こういう話をすると「あることがいいかどうかは個人の自由 」と言う人間を時折私は見かける。ただ、そういう人間は人に寄り添っていると見せかけて実は無関心の偽善者である。

 

 

3.日本人の戒めるべき1つの考え

最後に、学問をし「疑う能力」をつけて日本人にどうあってほしいと福澤は考えているのかを書いていきたい。

 

 

 

突然だが、あなたは親に以下のようなことを言われたことがないだろうか?

 

 

「会社を辞める」というと「あなたどうやって食べていくの!」と返ってくる。

 

「俺にはしたいことがある」というと「あなたどうやって食べていくの!」と返ってくる。

 

「母さん。俺公務員になるよ」というと「あら!よかったじゃない。家族でお祝いしましょ。」と返ってくる。

 

 

 

福澤がこの杜撰な日本の家庭教育を見たら泣くであろう。

「食べるために生きること」が一流であり「まとも」とされているのだ。

 

もちろん、独立して生活するのは、人間にとって重要なことであり、「自分の汗で飯を食え」とは、古人の教えではあるけれども、私の考えでは、この教えを達成したからといって、人間たる者の務めを果たしたとは言えない。この教えはただ、動物に負けていない、というだけのことだ。・・・世の中には、この蟻レベルで満足している人もいる。

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

 

 

確かに「食べていけること」自体を否定しないし、それは大切だ福沢は述べる。

ただ、それでは他の動物と何ら変わりないのではないだろうかと彼は付け加えるのだ。

 

福澤のいう「まとも」ではない。 

衣食を求め家を建てる時には、額に汗したこともあっただろうし、悩んだこともあっただろう。古人の教えに対しては恥じることはない。とはいえ、その達成したことを見れば、万物の霊長たる人間としての目的を達したものとはいえない。以上のように、一身の衣食住を得てこれに満足するべきだ、とするならば、人間の生涯はただ生まれて死ぬだけだ。死ぬ時には生まれてくるときと何も変わらない。 

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

 

なんかジジ臭い説教みたいになってるが、「ただ食って生きて、特に何も成すことなく死ぬ」だけじゃダメだということなのだ。

 

だから私は「阪神タイガースの応援に命をかける人間」を叩くし、「ポケモンGOにに時間を浪費する人間」を叩くのである。

 

 

平たく言えば、 「自分が生まれた時と死ぬ時で少しでも世の中を変えてみろ」と福澤はいっているのである。

 

要するに、われわれの仕事というのは、今日この世の中にいて、われわれの生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることにある。これは重大な任務である。

福澤諭吉『学問のすゝめ』 

 

「 そしてその任務を果たすために学問にとにかく精を出せ」と福澤はいっているのだ。

 

  

 

最後に福澤の教えを一言でまとめたい。

 

 

学問をし、「世の中の当たり前」を疑う能力をつけ、大事を成せ。 

 

 

 

おもしろき事なき世を面白く

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