私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

自分の生き方に疑いを持っていない人

私は思うのだ。

 

 

 

 

 

 

世の中には二種類の人間がいると。

 

 

 

 

 

 

それは、どういう人間かというと「疑いを持てる人間」と「疑いを持たない人間」である。

 

 

 

 

 

ここで一つの疑問が湧くかと思う。

 

 

 

 

「何に対する疑いなのか?」

 

 

その1つが「合理性」だ。

 

 

 

 

 

 

だれも日常生活で、

 

 

「このスイーツマジ合理的だから買うわ−」

とか

 

「私の彼氏合理的だから大好き」

といったことを言っていると言いたいのではない。

 

 

 

 

 

口には出さないが、我々を縛る最大の枠組みが「合理的」か否かである。

 

 

今日は、マイケル・オークショットの『政治における合理主義』を使って「合理的行動」について考えてみた。

 

 

 

1.そもそも合理的とは何か?

 

 

これは答えはもちろん一つではない。

答えを求めてしまうなんちゃってインテリ君には辛いところであると思うが、かんべんしてほしい。

 

 

 

ただ、納得解のようなものはある。

 

 

 

その1つが、オークショットによると以下のように書かれている。

 

 

 

 

「合理的行動」とは、それについて誰も恥じる必要のない何かである。

 

 

 

 

例えば、昨日は4月1日であったが、入社式帰りの新入社員で駅がごった返していた。

 

彼らの多くは、何も疑いを持っていない。

 

 

 

 

終身雇用で、年功序列の賃金がもらえる。

60歳で定年退職する頃には退職金をたくさんもらって、年金生活を始める。

 

 

 

 

彼ら・彼女ら、ひいてはその人達の親までこの「合理性」に身を委ねている。

 

 

 

だがしかしだ。

オークショットも言っているが、「合理性」というのは脆い。

 

 

なぜかというと、「ある事柄が合理的かどうか」は至極簡単に変わってしまうからだ。

 

 

 

 

 

 

2.「合理的かどうか」に従って生きることの愚

 

合理性があてにならない。

 

 

それをオークショットが著書で書いていた例でわかり易いものがあった。

 

 

次の画像を見てほしい。

 

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これは、ヴィクトリア朝時代の女性の服装である。(だいたい19世紀後半)

 

 

 

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之は、その女性が自転車に乗っている様子を描いたものなのだが、いかにも乗りにくそうではないか?

 

 

 

 

 

スカートが間違いなくチェーンに引っかかるだろうしタイヤに絡まれば、大事故であろう。

 

 

 

 

もし今子どもがこの服装で自転車に乗ろうとして止めない親はいないかと思う。

 

 

 

 

 

しかしながら、ヴィクトリア朝時代にあって女性が自転車に乗る時の最も「合理的」な服装だったのだ。

 

 

オークショットの説明では、この当時自転車に対する捉え方が違ったのだという。

 

 

どういうことかというと「自転車を進ませる活動にはどんな衣服が最適か」という問いは存在せず、「自転車にのる姿に関して、人々が見た時にどのような姿が最適か」という別の問いを立てていたのだ。

 

 

 

 

確かに二つ目の問いに対する答えとしてこの長いスカートを吐くことは「合理的」であると言えなくもない。

 

 

 

 

 

ここから言えることは、ある行動が合理的であるかどうかは、「目的」により大いに変化するものだということだ。

 

 

 

 

 

 

結局「合理性」とは誰かが引いたレールでしかないことをこの例は示唆している。

 

 

 

断っておくと「合理性」を否定しているのではない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、アカギにもあったが、優れた人間は、理を知ったうえで、あえてそれを知らないふりをすることもできる。

 

あえて不合理を選ぶことができるということだ。

 

 

 

 

この選択肢を二つ持っていることの重要性を私は、強く訴えたいのだ。 

 

 

 

 

 

なぜかというと、凡人というのは、誰かが作ったレールを吟味することなく身を委ねてしまうからだ。

 

 

そして、変化が起こった時に、それ以外の論理を持っていないため破滅してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.合理的というのは突き詰めれば、「大衆迎合

 

 

これは私が著書をよんで抱いた見解だが、「合理性」に縛られた人々は、「大衆迎合」的生き方しか出来ない人間だ。

 

 

 

 

 

「ある論理」が「正しい」かなんて、今の世の中では、「如何に多くの人が同意しているか」だけでしかないにも関わらずだ。

 

 

 

 

 

 

 

彼らは、何の疑いもなく食品添加物が山盛りの激安コンビニ弁当を美味しそうに食べるし、UNIQLOを何のためらいもなく着ることができる。

 

そして、会社にしがみつくのに必死。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の考えは一般的に見て「不合理」である。

 

 

 

ただ、私は、私で「合理的」と考えている。

 

 

 

 

 

 

 

何が言いたいんだろうと考えてみると、岡本太郎みたいになるが、「正しい」生き方なんてものをやめることで、道は開けると思っている。

 

 

 

 

 

 

あなたも「正しさ」を疑ってみてほしい。

 

  

 

 

 

 

 

あなたがもし「不合理」な選択をする際、友人や親は反対するかもしれない。

その時、このセリフを返してあげてほしい。 

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 「合理的かどうか」なんて考えてたら、だれかと同じ人生しか歩めないのだ。

 

 

 

 

 

  

 

*なんか文字化けしている。。。。UTF-8にしろよな。。。

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おもしろきことなき世を面白く

 

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