私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

20代の若者がだれもがうなずく「人間が一番求めるもの」について考えてみた

約 6 分
まず結論からになりますが、人間が人生で一番必要としているものは「自由」です。
 
 ハイおしまい。というほど浅い話題ではありません笑
 
 
では、「自由」とはなにか説明できますか?
 
 
あらゆる因果に縛られない時?
好きなことが好きなだけできる時?
何かから開放された時?
 
 
 
 
いろいろ思いつくと思います。
 
 
 
 
今回は苫野一徳氏の著書を使って「自由とは何なのか」そして、自分にとっての「自由」について考察してみました。
 

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1.あらゆる因果に縛られない時なのか?
 
2.好きなことを好きなだけできる時?
 
3.何かから開放された時?
 
4.では「自由」とは結局なんなのか?
 
5.あなたは「空気を読む」という言葉の意味を間違えているかもしれない

 

 

 
 
 
 
1.あらゆる因果に縛られない時なのか?
 
たしかに「自由」っぽい、、、ですね。
例えば、会社の人間関係が断ち切れたらどれほど「自由」だろうかと思ったりしたことがあると思います。
 
 
これは皮肉にも人間に「自由」など存在しないと考える哲学者達がよく使います。
 
 
つまり、人間があらゆる因果に縛られていると主張するときに使うようです。
(こういうのを背理法というのでしょうか)
 
 
例えば、親子の血縁など切れるものではありませんね。
 
 
 
 
ただ、フッサールは、「自由という概念を使う以上「自由」は存在してしまっている。だから、その概念が存在すること自体を否定することは出来ないのではないか?」と言い、前出の哲学者の主張を否定します。
 
 
 
 
 
なので、「自由」について考えるときに思考の出発点が「因果にしばられないこと」という定義は不適切なようです。(なぜならありえないから)
 
 
 
 
 
 
2.好きなことを好きなだけできる時?
 
これを著者は、「恣意としての自由」と読んでいますが、要は好き勝手できることを「自由」というのかという話です。
 
 
ただ、この「自由」は、法治国家においては、不自由への序章だともいえます。
 
例えば、「あー熱いな」と私が思い全裸で外を歩き回るとします。
 
すると遠くからパトカーの音が聞こえてきて捕まえられますよね。
 
そして留置所に入れられます。
 
 
 
 
「あれ?自由になろうとしたら不自由になっちゃったぞ」というわけです。
 
 
 
自分がだれとも死ぬまでかかわらなければ、この定義は「自由」といえるのかもしれませんが、非現実的ですね。
 
 
 
 
 
 
 
3.何かから開放された時なのか?
 
 
 
 
 
 
著者によると、この「自由」の定義が多くの人々が誤解しているパターンだそうです。
 
まずこれが不適切だと考えられる理由として、「自由」の能動性が欠如しているからです。
 
これを著者は、「消極的自由」とよび、本質的な定義ではないといいます。
(議論が終わらない領域だそうですが、、、、)
 
 
 
 
もうひとつこの定義が「自由」の本質とはいえない理由があります。
 
 
 
「〜からの自由」は、本質的に「破壊への狂暴」を含んでおり、本当に自由と呼べるかは疑わしいのです。
 
 
 
 
 
クーデターや革命などがその代表的な例でしょう。
歴史上絶対王政下から開放されるために国王を処刑し、「自由」を得たというものは多いです。
 
 
 
しかしながら、圧政下にいるといった前提が「積極性」という「自由」の本質を欠いています。
 
 
つまり、そもそもその前提になることを求めていないのですから、獲得したい「自由」とはいえないということです。
 
 
 
 
 
4.では「自由」とは結局なんなのか?
 
 
この答えは、ヘーゲルという哲学者が見出していると著者は述べます。
 
その答えとは、、、
 
「自由」とは、「他者との相互承認の感覚を醸成すること」によって実現するものである。
 
 
というのが、拍子抜け感もありますが、著者の出す結論です。
 
これはどういうことかというと、我々人間は欲望を必ず持っているがそれをすべて実行しようとすると相手の「自由」を侵害することに気づきます。
 
 
 
 
 
ですので、相手の「自由」を侵害しない程度に欲望を抑えつつ自己の「自由」を最大化すべきだということになります。
 
 
 
 
 
この感覚を養うのが、まず学校であり、家庭であるわけです。
 
 
 
 
人間は、生きていくなかで、この感覚をいかにうまく醸成できるかというのがより良い人生を生きる上で必要な能力となるわけです。
 
「好き放題やってはいけない」と述べた項と関わりがあります。 
 
 
 
 
5.あなたは「空気を読む」という言葉の意味を間違えているかもしれない
 
まとめると「自由」の獲得を達成するために必要な「他者との相互承認の感覚」は、言い換えると「空気を読む能力」がある程度必要ということになります。
 
 
 
 
この能力が低いと、集団から排除されたり、人に合わせすぎたりして、「自由」を獲得できないのです。
 
 
 
 之は言い間違いではなく、一般的に空気が読めるとされている「のりの良い人」「誘えばなんでも来る人」「いい人」は、空気を読む能力が高いのではなく、むしろ著しく空気を読む能力が低いゆえにすべてを取り込む選択をしている人だと思うのです。
 
 
 
 
 
つまり、多くの人が、食欲やSEXのような根源的欲求以外は、社会から与えられたものを自分の欲望と差し替えている人が多いということです。
 
 
 
 
例えば、自分が最も求める「自由」とは具体的にどういうものですか?と聞かれてなんと答えますか?
 
 
大企業に内定すること?
いい大学に行くことが?
友達がたくさんいること?
飲み会に行くこと?
マイホームを35年ローンで買うこと?
イクメンパパになってイオンモールで買い物をすること?
 
 
これは、「社会」という目に見えない他者がなぜか正しいと認定している「自由」の価値観ではないでしょうか?
 
 
 
 絶対に自分の内から求めたものではありません。
 「いい人」は自分の欲望をなにも本質的に満たすことなくオヤジ化し、死んでいくのです。
 
 
 
 
  「自由」に必要な「他者との相互承認の感覚」という定義を日本人は勘違いしています。
 
 
 
 
「空気を読んで飲み会に行くこと」や「友達とLINEをして何時間も潰すこと」ではないのです。
 
 
 
 
私は本著から「 自分が本当に追い求める「自由」を他者に承認させるべく邁進せよ」というメッセージを受け取りました。
 
 
がんばりましょう!!
 
 
 
お読みいただきありがとうございました。

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