私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

思考停止とは何か?ーその意味についてー

約 10 分

「あの人思考停止している」

 

あなたはある人に対してこう思ったことがないだろうか?

 

 

そして「思考停止」という言葉が上記のように使われる時、あなたはそのままであることを望まないのではないか?

 

 

それほどに「思考停止」という状態が危険な状態であるというのは多くの人間が教えられることなく共通理解としている。

 

 

 

ただ、思考停止とはそもそも何なのか?ということをあまり考えずに使っていることは少なくない。

 

ということで、今日は私が考える「思考停止」とは何か?その意味について書かせていただければと思う。

  1. 思考とは何か?
  2. 思考停止とは何か?
  3. 思考停止とは何か?

 

思考とは何か?

そもそも「思考」とは何かについてあなたは問われた時にどう答えるだろうか。

「うっ。。。」とならないだろうか?

 

私自身よくわかっていなかった。

 

そこで、改めて思考停止の意味について掘り下げる前に「思考」とは何かについてあらためてこの度整理した。

 

 

 

結論としては「思考」を最もした人間の生き様を見ることで、「思考とは何か」が見えるのではないかという考えに至った。

 

 

 

歴史上で「思考」を最もした人間は誰か?ということを考えていくと、もちろんたくさんいるのだが、ソクラテスという見解に私の中で達した。(極めて独善的であるという批判は承知の上で、、、)

 

 

ソクラテスがどういう人間かというのは『ソクラテスの弁明』や『メノン』を読んでいただくとして、下記のアーレントのソクラテス分析にて今は話を進めていきたい。

 

プラトンのソクラテス的対話篇においてまず最初に面食らうのは、それらがすべて難問に突き当たる性格のものだということである。議論の行き場がなくなってしまうか、あるいは堂々巡りになってしまう。正義が何であるかを知るためには、知るということが何であるかを知らなければならず、そうするためには吟味以前にあらかじめ知についての考えを持っていなければならない。だから「知っていることも知らないことも発見しようとすることはできない。知っているのなら探求の必要はないし、知らないのなら・・・何を探せば良いのかがわからないのだから。」

ハンナ・アレント『精神の生活 第一部 思考』

 

ソクラテスという人間がどのような人間であったかということがこの文章内で集約されているように私は感じられる。

 

彼は、あらゆる「答え」に対して「問い」を投げかけてその「答え」を破壊しようとするのだ。

 

プラトンの『メノン』なども徳について問いかけを通して、すべての議論の行き場がなくなっているという状態に帰結していた。

 

ここで、面喰らう人がいるかもしれない。より現状をややこしくするような投げかけをする人が「思考」する人なのかと。

 

 

むしろ「思考」ができる人というのは、「答えを出せる人ではなかったか」とあなたはいいたくなるであろう。

 

私の立場はというと、それに関しては「否」である。

 

というのも思考というのは「答え」を出すと続けられなくなるという特性を持っているからだ。

 

 

それ故に、思考においては問いを出す力の方がより重要になってくるのだ。

 

 

では、そのような「問い」ばかり出して何の「意味」があるのかとあなたは考えるかもしれない。

 

確かに「意味」を「目的」に見出した場合、それは「ない」ということができる。

 

ただ、ここで、「意味」というものに対するあなたの偏見を振りほどく必要がある。

 

あなたの偏見というのは今述べた「意味」と「目的」の同一視にあるわけだが、常に「意味」はそこに宿るわけではない。

 

思考とは破滅的なものであり思考の風は人々の指針として確立されている記号を吹き飛ばすハリケーンであって、年の秩序を壊し人を混乱させるのだということを、アテナイの人々はソクラテスに語ったのである。そしてソクラテスの方も、思考が破壊的であるということは否定したけれど、思考が人を向上させるなどというそぶりは見せなかった。ただ眠りから覚まさせてくれるのであり、それがポリスという都市国家にとって大変良いことなのだとソクラテスは思ったのである。しかし、偉大なる善行者となるために吟味を始めたなどとは言わない。彼個人に関して言えば、言えることはただ一つ、思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。ソクラテスがやったことの意味は行為そのものにある。

ハンナ・アレント『精神の生活 第一部 思考』

 

 

ソクラテスがその人生をもって示したことというのは「思考」というのは確かにニヒリズム的帰結をもたらすかもしれないということだが、同時にその「思考」しているそのとき自体にこそ我々の「生」の意味が宿るということを示していたのだ。

思考停止とは何か?

では、「思考停止」とは何かということになるが、ここまでの流れを組めば、我々の「人間らしさ」を最も損ねるものだと言ってもいいかもしれない。

 

 

思考なき「生」は無意味であるとさえ述べたアーレントの言葉は思考停止の危険性を最も的確に表現した言葉かもしれない。

 

では、「思考停止」に誘うものとは何か?ということを考えてみよう。

 

 

これは、イデオロギーという言葉がキーワードとなる。

ヴィーコは「クリティカ」とも読んだものだが、これは平たく言えば、ある事柄の顛末に関して、「単一」の帰結を要求するものである。

 

つまり、「ああすればこうなる」ということを「演繹的」判断することである。

 

この演繹的なものというのは「あらゆる経験」を考慮しない。

イデオロギーは常に、前提からの展開によって全てを説明するためには一つの観念があれば充分であり、全てはこの一貫した論理的演繹の過程の中に含まれている以上経験などは何も教えないという仮定に立つ。

ハンナ・アレント『全体主義の起源3』

 

 

もちろんソクラテスのようにすべてのことに問いを投げかけていては、何も物事が進まないし「イデオロギー」、「クリティカ」なくしては何事も決まらないというのは事実である。

 

 

しかし、「理論」や「答え」と呼ばれるものを盲信するものにも危険が多いに宿っているということなのだ。

かのニーチェはレッシングの言葉を用いながら単一の帰結に警鐘を鳴らした。

 

もっとも正直な理論的人間であるレッシングがあえてこう言明しているわけだ、自分にとって重要なのは、真理そのものよりも、真理の探究の方である、と。この言葉によって、科学の根本的な秘密が露呈され、科学者たちの驚き、と言うより憤激を巻き起こしたのであった。

 レッシングのこの認識は、過度の驕慢ではないとすれば、過度の正直である。

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』

 

どちらが良くてどちらが悪いというわけでもないのだが、昨今はクリティカ重視の世の中で、「思考停止」に流れが行きがちというのが私の実感もあり、「思考」の重要性を強めに話させてもらっている。

 

目の前にある「安易な答え」に飛びつき思考停止する現象がいたるところで起こっておりその事態を収集する方法として「思考」の重要性をとかせてもらっている。

 

思考停止しないためにすべきこと

アーレントは「近代哲学が全体主義につながる極めて危険な性質を持っていた」という旨の言葉を残しているが、哲学というのは近代前後で180度形を変えてしまった。

 

近代以降はデカルト以降「単一の真理」の追求のために哲学者は自らの人生をささげた。

 

それまでの哲学というのはソクラテスに代表されるようにより多くの問いを出すことやより多くの答えを出すことに価値が見出されていた。

 

言い換えれば、客観性とは、優劣をつけないこと、そして介入しないことであった。この二つについて言えば、優劣をつけないこと、すなわち賞賛も非難も差し控える抑制の方が、介入しないことに比べればはるかに達成しやすい。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

答えを出したいと思う考えや答えを知りたいという欲求は人間の本源的な欲求かもしれない。

 

一方で、その地点にたどり着くこと自体は終末の谷であるかもしれないというオルテガの指摘を我々は胸に刻まなければ思考停止という名の病に捕まる可能性が大いにある。

ところが、われわれは、そうした申し分なく充溢した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づくのである。真の生の充実は、満足や達成や到着に有るのではない。セルバンデスは、かの昔に「宿屋よりも道中の方が良い」と言っている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は枯れ果ててしまっている。するに、かの素晴らしき頂点というものは、実は終末に他ならないのである。

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

 

 

では、思考停止しないためにしなければならないこととは何か?

それは、もちろん思考し続けることなのだが、ここで終われば、本田直之と比肩する中身のない記事になってしまう。

私が思考し続ける上で必須だと考えているのは、それは一人でこもって「うんうん」と悩んだり、丸善で平積みになっている自己啓発書を読み漁ることでもない。

 

このほう芽はソクラテス、アウグスティヌスに認めることができるが、思考を他者との対話を通して行うことに他ならない。

 

マルクスがヘーゲルの歴史哲学・・・から引き出した結論によれば、あらゆる伝統的解釈とは逆に、活動praxisは、思考(thought)の反意語などでは全くなくて、リアルな真の思考の媒体だったのであり、政治は、哲学的威厳など微塵も帯びていないというのでは決してなくて、本質的に哲学的唯一の活動力だったのである。

ハンナ・アレント『政治の約束』

 

通常「思考」というものは、一人で行うものという偏見がつきまとう。

 

しかしながら、ヤスパースがその危険性を指摘したのだが、一人での思考とは、結局のところ「思考停止」に修練せざるをえない。

 

 

もちろん「単一の真理」というものは存在しない。

しかしながら、暫定的な納得解と呼ばれるものは構築できる。

 

それはどのようにしてなしうるのか?

 

他ならぬ常に他者との対話を通して構築される。

 

「思考」は常に他者を必要とする。

 

他者との対話を続けること

 

それが思考停止を防ぐ最大の薬なのである。

 

おもしろきことなき世を面白く

 

 

 

 

読書って何をしたらいいのって人へ

About The Author

高杉晋作
1992年日本生まれ。ハンナ・アレント、カールヤスパースを師と仰ぎ読書会をやっている青年。より多くの人に「言論活動」の場を広げることで「人間味ある世界」の再生を目指している。

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