私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

会社の飲み会に行くと疲れる理由についての省察

約 8 分

会社員となると避けては通れないのが「飲み会」というイベントである。

 

 

日本で会社法人としてそこそこの規模があるところにあって「飲み会」がない方がめずらしいように思われるほど日常的だ。

 

 

しかし、例外中の例外を除いて会社の飲み会に行って疲れる以外の何の感情も残らないという人は少なくなりだろう。

 

 

おそらく若い人ほどこの考えには共感が得られるだろう。一方で、年増の人からすれば「何を言っとるんだ君は!」という感じだろう。

 

 

さて、「会社の飲み会」について日本でもっとも普段から考えている私なりにやはりこの疲れる理由について改めてまとめておく必要を感じている。

 

シモーヌ・ヴェイユという哲学者が以下のように述べていることに私はシンパシーを感じるからだ。

食べるために働き、働くために食べ・・・この二つのうちの一つを目的と見なしたり、あるいは、二つともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。サイクルにこそ、真実が含まれている。

 かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。

 人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

 

やはり自分がいかに苦悩の中にあろうともその苦悩の正体が分かれば少しは疲れると言う気持ちも癒されるというものだ。

 

さて、いよいよ本題に入ろうか。

  1. 会社の飲み会に対する若者と中高年の捉え方の相違の出どころ
  2. 危険な会社の飲み会の特徴について
  3. 疲れるという感情を生み出さない会社の飲み会

 

会社の飲み会に対する若者と中高年の捉え方の相違の出どころ

まず、会社の飲み会に対して若者が疲れるという感情を感じやすく中高年の方がそう感じにくいのかについて考える必要がある。

 

*これは、もちろん趣の問題で、若者でも楽しめるものもいれば中高年で苦痛に感じているものがいるということはわかった上で書かせていただく。

 

これは、おそらく会社というものと自分との間をどう捉えるかにかかっていると私白考えている。

 

 

 

具体的には、若者であるほど会社(のメンバー)と自分を「契約関係」でみなすのに対し、中高年ほど会社(のメンバー)と自分を「血縁関係」のである。

 

この着想自体は山本七平を読み返していた時だ。

 

山本が綴る外国人が日本の会社にやってきた時のエピソードが興味深いので少し長いが引用したい。

前 に、 井上 さん という 神父 から、 次 の よう な 面白い 話 を 聞い た。 ある フランス 人 神父 が 日本 に 来 て、 ある 機関 に 奉職 し た。 彼 は フランス 人 だ から、 当然 に フランス 式 に やる。 人 を 雇う 場合 は、 あくまでも 契約 で ある。 相手 によって、 五 年 契約 も あれ ば 三年 契約 も ある。 そして 無 契約 とは、 実は、 即座 に クビ に できる こと なので ある。 いわば その 人間 の 地位 を 保障 し て いる のは 契約 だけで あり、 無 契約 とは 何 も 保障 し ない という こと で ある。 したがって 無 契約 状態 で 働い て いる もの は、 当然 に その こと を 知っ て いる はず だ という のが、 この フランス 人 神父 の 常識 で ある。だが、 この 常識 は 日本 では 通用 し ない。 日本人 にとって は、 そこで 働く という こと 自体 が「 話し合い」 の 結果 で あり、 その「 話し合い」 の 結果 の 消滅 には、 消滅 に関する「 話し合い」 が ある はず で あっ て、 無 契約 だ から 今日 解雇 する と いえ ば、 その よう な「 一方的」 な 処置 には 応じ られ ない という こと に なる。

山本七平『日本資本主義の精神』

 

フランス人に限ったことでもないが、多くの国においては会社と個人は「契約」においてできており、それがないならばいかなる約束も守る必要がないということがここでは書かれている。

 

しかし、一方で、日本の場合は、「契約」ではなく、「話し合い」で関係性が担保されており、相手からの一方的な通達というのは受け入れがたいというカルチャーがあることを書いている。

 

 

 

で、本題に戻ろう。

会社の終業時間以外の飲み会を疲れるものとしか考えてない若者はおそらくどこから仕入れたかはわからないが、西洋的な発想で物事を見ているからというのが一つの考えられることである。

 

 

ただ、ここで完全に「契約」だけで見ているわけではないというところが多くの若者がとる態度の複雑さを表しているかもしれない。

 

 

具体的にいうと、こういう「契約」的な発想を持ちながら終身雇用や年功序列的な「血縁」的発想を持つダブルスタンダードの若者が少なくないということだ。

 

日本の雇用の契約は期間の定めがないのだから完全に「契約」的に生きているという考えを貫くのならば、明日リストラをされることを考えている必要がある。

 

 

いわゆる会社の飲み会に対する論考では、若者的な側を擁護するパターンが少なくないが、この辺りの若者のダブルスタンダードはいただけないものがあるということは私の一石かもしれない。

危険な会社の飲み会の特徴について 

ただ、そうだからといって会社の飲み会が素晴らしいという論調には賛同しないのが私の一貫した立場だ。

 

 

なぜなら、血縁関係を人間関係のベースにすると契約関係を上回ると言ってもいいほどの強力な排他性を持つからだ。

 

日本人の態度は、確かに開放的で、物腰は柔和で礼儀正しい。しかも常に「相手の立場」に立って、応答してくれる。だがそのことは、決して社会が開放的ということではないのだ。こうしたわけで、どのような労働力不足が到来しても、日本に外国人労働者を入れることは不可能に近い。彼らは機能集団に契約によって加入しようとするが、われわれの社会は擬制の血縁集団にはいらない限り、機能集団には加入できないからである。

山本七平『日本資本主義の精神』

 

感覚的な話で申し訳ないが、マッキンゼーなどの一部の超がつく外資を除けば外資系であっても日本法人の会社の場合このような血縁をベースが前提になっているし、逆に多くの日本語が堪能な外人が社風に馴染めず母国へすぐに帰ってしまうというのをよく見ている。

 

 

おそらく飲み会文化などは若者が疲れるとSNSでつぶやくのとは比ではないくらい「意味のわからないもの」だと私は推測している。

 

 

 

この「血縁イデオロギー」の本質的な危うさについて私はここで触れることになるが、核心はその「全体主義的」側面に見ることができる。

 

 

 

全体主義というのはハンナアレントの考えを借用するならば中身がからっぽの「イデオロギー」に<指導者>と大衆が一緒になって進んでいく「運動」である。

*参考までに引用しておきたい。

<指導者>の個人的能力が不可欠の重要性を持っているのは、運動が全体主義化への途上にある間だけである。完全に発達してしまった後の全体主義運動自体にとっては、運動の中心に立つ<指導者>の機能と地位の方が彼の個人的特性よりはるかに重要性を持つ。

・・・運動がこの段階に達した時には、<指導者>はかけ替えのない存在となる。なぜなら運動の複雑な全構造は、<指導者>の命令がなければたちまちその存在理由を失い、自らを破壊するようになるからである。

ハンナ・アレント『全体主義の起源3』

 

 この全体主義というものの本質は「個人が全体に従うべき」という字の通りの効力を持つのがその恐ろしさのコアには「終わりがない」というところにあるのだ。

 

 

アーレントも指摘しているのだが、一度この運動に巻き込まれるとその組織自体が崩壊するまでなんでもありになってしまうところが恐ろしい。

 

 

会社の飲み会というのはまさにこの側面がかなりある。

私は前にふざけて『全体主義の起源』を飲み会の起源としてパロディで文章を書いたが少なくない反響があった。

 

  • 現実の経験を無視した運動
  • 敵のでっち上げとその攻撃による団結力の強化
  • すべての人間の意見と称して代弁する<指導者>の存在

などなど上げ始めると多数ある。

詳細は、私のブログもしくは『全体主義の起源』をぜひ読んでいただければと思う。

 

疲れるという感情を生み出さない会社の飲み会

さて、飲み会が疲れるという話からずいぶんと話がいろいろ言ったが、私は現存の飲み会のほとんどが嫌いだが、それ自体を否定するつもりはない。

 

 

そして、日本の会社を契約的にしろとは思わないし、むしろ血縁の側面が改めて評価されても良いと思っている人間である。

 

 

しかしながら、「全体主義化」することは何があっても許されない。

 

 

そこには一つの条件がある。

やはり「言論の自由」だ。

 

これが、いわゆる権力のある中高年がわの手動で積極的に確保されなければならない。

三島由紀夫も「全体主義」という最も警戒すべきものの対処法には言論の自由以外ないと断言している。

 

左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、常に全体性の削減へと向かうのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。

三島由紀夫『文化防衛論』

 

 

 

会社の飲み会が疲れる理由とは「言論の自由の弾圧」に他ならない。

飲み会の運営にこの考えが生かされることを切に願う。

 

 

おもしろき事なき世を面白く

 

 

About The Author

高杉晋作
1992年日本生まれ。ハンナ・アレント、カールヤスパースを師と仰ぎ読書会をやっている青年。より多くの人に「言論活動」の場を広げることで「人間味ある世界」の再生を目指している。

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